レース
「今日は1日早かったですね」
人がよくて銀行員としてはのんびりやのAさんがつぶやいた。
「忙しいと早いもんですよ」
うなずきながら答えた。
「いやあ、でも1日が長い日もあるんですよ。朝、来てもろくに挨拶もしないで、1日みんなとしゃべらないような人が来た日とか、1ヶ月に2日くらいくる人いるじゃないですか。あの人がくるとみんな黙っちゃって、出張所の中がシーンと静まりかえっているんですよ」
「そんな人いるんですか」
「いるんですよ。この間、うちの銀行のアルバイトの人がカナダに行った話で盛り上がっていたんですよ。そうしたら、翌日、本店で上に呼ばれて、出張所では1日、おしゃべりしてるだけなのかと言われちゃいましたよ。だから、誰もおしゃべりできず、1日の大半は待ち時間(Aさんの出張所はお金の集計が主業務なので待機時間が長く、一般のお客さんは来店しない)Oさんとか、Tさんとかだと楽しい1日が早くすぎるんだけど」
「銀行だとドラマでよくあるじゃないですか、頭取レースとか。Mさんは情報部員として送りこまれているんじゃないですか。相手陣営の様子を調べてきてほしいとか言われて、性格的なものだけかもしれませんが」
「ははは、それはどうかなあ。本店の5階と6階ではデッドヒートが繰りひろげられているのかもしれないけど。役員食堂で食事する人達とか。入ったときから中枢部だもんなあ。俺達を監視しにきている監視要員かもしれないけど。頭取レースにはゲートインすらしてないよ。出走資格満たしていないんじゃないの、ここの出張所にくる人達、ははは」
Aさんは更衣室へ向かって足取りも軽く歩いていってしまった。
「Aさんは頭取レースに参加してないけど、いつものレース、今、2コーナーぐらい行ってるんでしょう」
わきで黙って聞いていたJ子さんが話しかけてきた。
「いつものレースって何ですか」
「結婚レース」
「ああ、あの1人しか走っていないから余裕、余裕とか言っていた中国のハルピンの女の人」
「一人しか走っていないと思ったら、ダークホースがいて3コーナー、4コーナーあたりでずぶずぶに沈んでいくんじゃないの、いつもみたいにねえ」
「そうかも知れないですねえ」
J子さんも帰り支度をするために更衣室へ足早に歩いて言った。 今まで黙って、すみでこのやりとりを聞いていた定年まであと少しのKさんが話しかけてきた。
「J子ちゃん、人のこと3コーナー、4コーナーで馬群にのまれ沈んでいくとか言ってるけど、J子ちゃんのダンナ知ってるか、J子ちゃんのレースで走っていたのはダンナ1人でロバみたいにのろい奴だったんだぞ」
「ロバですか。J子さんのダンナがロバだとするとKさんと私達は何ですかねえ」
「俺達はあれだよ、あれ、何だったっけ、あのナリタブライアンとか、メジロマックイーンとかオグリキャップとかバリバリのサラブレッドだろう」